「失望」という名の悪魔の楔が心に打ち込まれそうになった時、信仰者たちはどのようにして、それを弾き返してきたのか──。
本欄の前編、「人物伝 ザビエル 『失望』という楔を弾き返した人々」では、キリスト教の伝道師・ザビエルが「どのように死や拷問が待ち受けていようとも、一つの魂を救うためなら、一万回でもその中に飛び込む覚悟がある」と語り、さまざまな試練を乗り越えたことを紹介した。
今回の後編では、その「失望」という名の楔と戦ったのが、キリスト教の伝道師だけではなく、仏教の信仰者たちの中にも多くいたことを紹介する。
法顕は62歳という高齢の身で、中国からインドへ経典を持ち帰る旅に出た
「数多くの僧侶が、一字一字写経して、その経典を運ぶということは、どれほどの苦労であったろうか。命を懸け、舟で渡り、その法を伝えんとした。また、ヒマラヤの山を登って伝えんとした」(『大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション(3)』)
歴史上、中国からインドまで往復3万キロと言われる距離を旅して、経典を持ち帰った仏弟子として、とりわけ有名なのは法顕(ほっけん、337~422年)と、西遊記・三蔵法師のモデルにもなった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう、600~664年)だ。法顕は戒律を集めた『律蔵』を、玄奘三蔵は、法相宗の教えの中心となる唯識の教学(『瑜伽師地論』等)を修めて関連経典を持ち帰った。
法顕は、後漢が滅んだ後の4世紀、五胡十六国時代の中国に生まれ、幼くして出家し、20歳で具足戒(ぐそくかい:正式に僧侶になること)を受けた。
修行を続ける中で、当時の中国仏教では戒律が整っていないことを理解し、インドから『律蔵』を持ち帰ることを志し、62歳の頃、高齢の身で長安から天竺へ求法の旅に出る。
法顕と共にインドを目指した弟子は9人。シルクロードをゆき、敦煌から西域南道を経て砂漠を越えた記憶を記した言葉は、後代にこう語り継がれてゆく。
「悪鬼熱風に地上のものみな死して一つも全きものなく、"上に飛ぶ鳥なく、下に走(ゆ)く獣もなし″」(梅原猛著『仏教伝来〔東洋編〕』プレジデント社)
旅の途中で愛弟子を亡くしつつ、戦乱の時代に魂の救いをもたらすため命懸けの求法だった
その後、パミール高原を越えて北インドに到るまでは「昔の人が千尋の断崖絶壁を穿ち、足がかりになる棒を打ち付けた険道を越えること七百余カ所、奔流する河を吊り橋で渡ること数十余カ所」(前掲書)だったという。
法顕一行は、さらに、かつてアレキサンダー大王が越えたカイバル峠につらなる雪山に挑む。そこで愛弟子の慧景(けいけい)が力尽きる。吹きすさぶ雪と風の中で、口から白沫を吹いて倒れた慧景は法顕に自分を構ってはいけないと伝えた。
「ここに私といては貴方まで死んでしまう。私をここに措いて一時も早く先を急いでください」(前掲書)
法顕は死にゆく慧景を抱きしめて号泣し、一行は釈尊が遺した聖地を目指す。






















