幸福の科学出版 ザ・リバティ(The Liberty)編集長ブログ

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里村英一のザ・リバティ編集長ブログ


石垣は熱かった

お蔭様で「ザ・リバティ」の最新号、12月号が大好評をいただいております。

 

 政局と金融危機、それに麻生首相の過去世の大公開と、盛りだくさんの内容なのですが、現在の日本と世界の状況に危機感を抱く多くの方々に受け入れていただいているようです。

 

 本当にありがとうございます(涙涙)。

 

 12月号の締切りの余韻も消えやらぬ先週末、仕事で石垣島と宮古島、沖縄本島を駆け回ってきました。

 

東京では木枯らしが吹くかと思えるような天気だったのですが、石垣島に降り立ったら、そこは真夏の南の島。みるみる気持ちがほぐれていきました。

 

 ただ、今回の石垣島訪問は、そんなのんびりした雰囲気とは全く正反対のテーマを目的とするものでした。

 

 それは中国の政治・軍事戦略研究の第一人者、平松茂雄前杏林大学社会学部教授による「国境の島・石垣の未来を考える」という講演会に同行させていただいたものだったのです。

 

 主催は石垣で「ザ・リバティ」を応援してくださっている有志の皆さん。私も開会の挨拶をさせていただくということで、お邪魔したわけです。

 平松氏の最新著『「中国の戦争」に日本は絶対巻き込まれる』(徳間書店)は、某雑誌で桜井よし子氏が、「今、ぜったいに読まなければならない本」として推薦されていました。

 

いや、確かにその通り。

 

毛沢東以来の中国の大戦略について、余すところ無く論じられており、圧巻の一語に尽きます。

 

今回、平松氏にお願いしたのは、東シナ海の中国の動き、あるいは尖閣諸島をめぐる問題について講演していただきたい、というものでした。

 

現地にいって、講演会のPRチラシを見て、ビックリ。

 

「竹島、次は石垣か」

 

なんていうコピーが大きく載っているではありませんか。

 

 

これは、普段国境の問題を考えない人たちには少し過激に感じられるかもしれません。しかし、台湾、中国に接している石垣の方々には切実かつ身近なテーマなのです。なにしろ、尖閣諸島の住所表記は「石垣市登野城町」。石垣住民にとっては「町内」の話のわけです。しかも去る6月には海難事故をきっかけに、台湾国会がヒートアップ。「尖閣諸島は台湾の領土だ」と言い放ったり、「軍艦の派遣も辞さない」と威嚇したばかり。

 

ということで、固いテーマにもかかわらず、石垣市市民会館の300人収容の会場は、立ち見まで出る満員御礼の状態になったのでした。

 

平松氏の講演の内容については、また別の機会に詳しくご紹介したいと思います。ただ、プロジェクターを用いて豊富な図面や写真を見せながら詳しく中国の動きを論じる平松氏の講演に、聴衆の皆さんはただただ圧倒されていました。

 

私の横にいた中年のご夫婦は、どうもご主人は奥さんに連れられてきたという風情だったのですが、講演が佳境に差しかかるや慌てて横に座っている奥さんに「紙とペン!」とか言ってメモっていました。

 

「すでに石垣・宮古島近海は、中国の海になっている」という平松氏の言葉に、一同息をのんでいました。質疑応答も活発に行われ、たいへん充実した講演会となりました。そして、その勢いはそのまま「打ち上げ」にも持ち込まれ......。

 

 いえ、これ以上は書けません。

 

 ところで、この日、沖縄本島の名護市では、四人の米兵が乗った軽飛行機が墜落するという事故が起きていました。幸いなことに死者はでなかったのですが、沖縄の地元マスコミは大騒ぎ。新聞1面トップと社会面を全面的に使って連日このニュースを取り上げていました。

 

 確かに小学校から300メートルという地点に墜落したのですから、肝が冷えたのは当然でしょう。しかし、同じ日、欧州市場で円が13年ぶりに90円台をつけて日経平均株価が大暴落という大ニュースがあったのですが、それが新聞1面の片隅というのは、やや本土から来た人間にとっては報道のバランスを欠いているのではという気がしないでもありませんでした。

 

 しかも、事件の2日後の新聞には、「沖縄は植民地か」という大見出しが出ているではありませんか。「植民地」ですよ、植民地。

 

 これは、沖縄県警による機体押収を米軍が拒否したことに関しての県警関係者のコメントという触れ込みなのですが、ウーン......。県警関係者がそのように言ったにしても、見出しでこの言葉を使うというのは、やっぱり地元マスコミが「沖縄は被害者」という意識を掻き立てているとしか思えません。

 

 因みに、その沖縄マスコミが中国の東シナ海進出(侵出)に関しては、ほとんど報道しないと平松氏は語っていました。日本政府や米軍の行動に関しては異様なほど口やかましく言い立てるのに、中国に対してはそうでもないって、これってどうなんでしょうね。

 

  石垣.jpg      見てください。この素晴らしい青い海を!

2008年10月31日

あるところには、ある

 怒涛の締切りを何とか乗り越えることができました。

 

 最新号は、大幅増ページに加え、最後の最後まで政治と金融危機に関する最新情報を入れ込もうと血眼になっていたので、それはもう疲れました。

ただ、「やるだけのことはやったかな」という、心地よい疲れではありましたが。

 

ところが、編集者の業とは深いもの。翌日には、「こうすればよかった」とか、「こんな見出しにすればよかった」とか、次から次へと悔いが出てくるのです。後の祭りではありますが、そんな悔いが次の号へのモチベーションにもつながるので、全くのムダとは言えません。

 

それにしても金融危機に関しては、お先真っ暗というような見出しの記事がこれでもかと言わんばかりに巷にあふれ返っています。

某新聞は、日経平均が1万円を割った日に、わざわざ号外を出しました。

 

「オイオイ、号外出すようなことか」と正直思いました。

 

この次は、ぜひ1万円の大台に再び乗せたときに、号外を出していただきたいもんですね。

 

都内の大手不動産業の方の話によると、外資系が日本経済がどん底だった時期に買いあさった不動産物件を、慌てて売りに出しているそうです。キャッシュの確保に必死なのでしょうが、90年代の日本の金融界の凋落の記憶も生々しい当方としては、諸行無常の理を感じないわけには行きません。

 

また、こんな話も聞きました。投資していた資金を回収した人たちは、とんでもない額のお金を「タンス預金」にしているそうです。有望な投資先が見当たらないためですが、不況風が吹き始めた昨今、やっぱりあるところにはあるもんだなと思いました。

 

国会議事堂近辺でタクシーに乗り込んだら、運転手さんが霞ヶ関を通り過ぎるときにぼやいていました。

 

「居酒屋タクシーが報道されて、商売がサッパリや」

 

タクシーに何億というお金を使っていたのが、数百万円にまで絞られたのですから、それはタクシー業界に与えた影響は大きいでしょう。

実際、国会対応で深夜にまで勤務が続く役人はたくさんいると聞きます。それも、日本をいい国にするために必要なコストだと思えば我慢はしましょう。

 

ただ、タクシー代に消えているそのお金は税金ですからね。そこは勘違いしないように、タクシーの運転手さんにも役人の皆さんにもお願いしたいと思います。

 

いずれにせよ、木枯らしの季節が近づくに従い、やや気が滅入るような話が増えてきました。

 

 

このブログでは、そんな不景気風を吹き飛ばすような話を書いていきたいと思っています。

 

ということで、週末は沖縄に出張してきます。

尖閣諸島をめぐる取材もしてきます。こぼれ話にご期待ください。

2008年10月22日

緒形拳さんの想い出

 日本を代表する俳優のひとり、緒形拳さんが肝がんで亡くなられました。

 享年71歳。最後まで映画やテレビ、舞台の第一線に立たれて、文字通り役者人生を全うされた一生でした。心からお悔やみ申し上げます

 

 実は今から18年前、緒形さんと一緒に中国を二週間ほど旅したことがあります。

 

某テレビ局の中国ドキュメントのロケでした。

 

 当時の中国は天安門事件の跡も生々しく、まだ1990年代の鄧小平指導による改革開放が始まる前の段階。現在と比べたら、これが同じ国かと思えるような国でした。

 

超高層ビルも少なく、街灯は暗く、ネオンサインもまばら。

 

サービスは、ホテルでもデパートでもレストランでも、何を頼んでも「メイヨー(ない)」と言い返されるのが当たり前。

 

とにかく重く、暗かった。

 

一月末という厳寒期に行ったのですが、そういえばホテルのシャワーはお湯が途中で水に変わることが頻繁で、怖くて入れなかった記憶があります。

 

 

 緒形さんとは紫禁城の正面で初めてお会いしました。

 

寡黙な方ですが、話をしていると滅法かわいいというか、

いたずら小僧のような顔で笑われるのが印象的でした。

 

ロケ隊は北京を起点に、万里の長城を越え、張河口へと向かいました。

 

 気温は平均して零下15度を下回っていましたが、

緒形さんから「寒い」というような愚痴めいた言葉が出たことは

一度もありませんでした。

 ある村で撮影していたら、小学生ぐらいの男の子が近寄ってきました。すると緒形さんは通訳の人を交えてたちまちその子と仲良くなり、その子の家までいって撮影ができました。

 

 そのころ、私はお恥ずかしいことに、おつまみの「エイヒレ」を食べて前歯が折れている状態でした。笑うと口にポッカリ穴が開いているわけです。

 

その面相が緒形さんに大いに受けて、私は緒形さんから「エイヒレ」「おい、エイヒレ」と呼ばれて可愛がっていただきました。

 

 特に、戦前、日本が満蒙政府を置いた張河口での取材は思い出が尽きません。

 大雪が降りしきる中、早くに撮影が終わったので、

私は緒形さんと一緒に市街に散歩に出かけました。

 

 そのころは張河口はまだ外人立ち入り禁止区域となっており、海外のカメラクルーが入ったのは、私たちが初めてのことでした。

 

 その張河口に、顔立ちこそ似ているものの、服も手にしているカメラも全く中国人らしくない人間が歩いているのですから、目立たないわけがありません。

 

 それでどんどん人が集まってきて、緒形さんと私たちの後ろを歩いてくるのです。みんな緒形さんの顔を見て指を差して何か言ってます。

 

「エイヒレ、僕の顔に何かついているか?」と、さすがの緒形さんも首をひねっていました。

 

後で分かったのですが、当時中国では山口百恵さんの「赤いシリーズ」が国民的人気になっており、そこに緒形さんがレギュラー出演していたので中国でも超有名人だったのです。

 

 張河口では、こんなこともありました。私は中国人スタッフたちと現地のディスコ(と言っても、体育館でしたが)に出かけました。とても不思議な音楽が流れる中、私が中国人女性と向き合って踊っていたら

(あまりムードがよかったせいか?)

中国人男性たちがなにやら私に詰め寄ってきました。暴動寸前という感じです。中国人スタッフが「まずい」と慌てたので、一目散に宿舎に逃げ帰りました。

 

 その一部始終を緒形さんに話したら、

「エイヒレ! 何でそういう面白いところにオレを連れて行かなかったんだ!」と、緒形さんはムキになっていました。

 

 ロケの終わりごろ、宿舎の緒形さんの部屋で2時間ぐらい話しこみました。新人役者としてのデビューのころのこととか役者魂とか、いろんなことを聞かせていただきました。役者に限らず、「プロとはこういう人を言うんだな」と学ばせていただいたものです。

 

 中国ロケから半年ほど経って、都内の某所でバッタリ緒形さんに出合いました。そのときには私の前歯はきちんと修復されていたのですが、それを見た緒形さんは、

「エイヒレ、お前......」

と言って、私の口を指差して目を丸くしていました。

 あの緒形さんの驚いた表情、いまだに忘れられません。

 

 名優の逝去を悼みつつ、生前のご厚誼に心より感謝を捧げたいと思います。

 

                                

合掌。

 

2008年10月 8日