シャルリー・エブド紙に対する銃撃テロを受け、ヨーロッパ諸国がインターネットの監視や検閲を強化する提案を出している。米紙ニューヨーク・タイムズ(NYT)の国際版がこのほど報じた。

中には、「ヘイト・スピーチ」と目されるサイトを廃止することをインターネット会社に要請したり、政府がSMSなどのチャットやメッセージ・サービスを監視できるようにすべきだという意見もある。

しかし、これは明らかにおかしい。シャルリー・エブド銃撃に対する政府・マスコミの論調は、「言論の自由に対する攻撃」というものだ。だが、今回の監視システムは、宗教を冒瀆するような「言論の自由」は認めても、自分たちの安全を守るためなら言論の自由を侵害してよいと言っているに等しく、矛盾している。

今回のようなテロ行為は、いつどこで起こるか分からないし、何がテロにつながるかは分からないので、どれほど監視を強化しても阻止するのは不可能に等しい。これは、政府が、法律や政策レベルで対応できることの限界を示している。

また、「ヘイト・スピーチ」であるか否かを、誰が決めるのだろうか。もし、一部の人によって自由の範囲が制限できるならば、統制国家が生まれてくる。

ゆえに、誰か特定の人物ではなく、国民一人ひとりが自由の価値を最大限に生かすことができるような見識を持つ必要がある。「無制限の自由」に歯止めをかけるのは、宗教的良識しかない。

「信教の自由」は「内面の自由」を担保するものだ。シャルリー・エブド紙は、ムハンマドの風刺画を通して、イスラム教徒の心に土足で踏み込んだ。一部疑問の声が挙がったとはいえ、ヨーロッパ社会はそれを良しとしたのだ。

宗教的な良識を欠き、正しい価値判断ができない国では、どれだけ法律を整え、政策を練っても、今回のような事件は後を絶たないだろう。実際、今回のシャルリー・エブド事件は、「宗教を冒瀆することは正しいかどうか」という価値判断ができなかったから、イスラム系フランス人を怒らせることになり、結果的に自分たちの自由を制限してしまったのではないか。

テロ行為は決して許されるべきものではないし、国としてそれにどのように対処すべきかを検討するのは当然だろう。しかし今回の事件は、民主主義にとって宗教がいかに不可欠なものであるかを、ヨーロッパ諸国が考え直す材料となるのではないだろうか。(中)

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